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「俺のニューガンダム」というものの意味について考える。

以前、せっかくEGニューガンダムにはフィンファンネルが付属しないのだから、いっそのこと「フィンファンネルより似合うぜ!ニューガンダムのオリジナル装備デザインコンテスト」っていうのはどうだろうか…と投稿したことがある。

それよりさらに一歩踏み込んで話をすると、ニューガンダムの登場する逆シャアは初代主人公の物語が完結する劇場版ということもあり、ニューガンダムは宇宙世紀におけるニュータイプのある種の到達点ともいえる。
ではニュータイプとは何か、ニュータイプのあるべき姿とは何だろうか?劇中の設定はともかく、つまるところは、製作者が視聴者である子どもたちに対して提示する、「これからの若い世代はこうあるべき」という理想であろう。

例えば、環境破壊が注目された時代のアニメだったら、人類に怒った地球が生み出した怪獣と闘いながら「これからの時代の子どもたちは自然と共存できるようになるから、もう少し人類を信じて見守ってほしい」みたいなオチで終わることが多かったですね。

ガンダムも、第二次大戦を終え、ベトナム戦争を見てきた日本人が、これからの子どもたちはどうあるべきかを考えた時に、「もっと他人と分かり合えるように」とか、「グローバルな視点で先見性をもって」とかを期待した。

でも逆シャアで描かれるのは、人間はお互いに分かり合えないという姿でもある。そりゃそうだ。長年の親友だって知らない面があるのに、ろくに知らない人と理解し合うとか無理に決まっている。人それぞれ出来ることも違えばしたいことも違って、見えているものも違う。宇宙に出れば人間は無理なことが出来るようになると妄想に頼るよりも、どうやっても分かり合えない人間が、それでもお互いを尊重して生きるにはどうしたらいいのかという、足りないピースを求める必要がある。片翼の天使、比翼の鳥、ニューガンダムに至っても単体では不完全な人間、他人と支え合う必要があるのに、しかしその隣り合う人とも理解はし合えない。できないからこそ、少しでもマシになるように、新しい世代の子どもたちは今までになかったピースを求めて手を伸ばす。世の中なんてこんなもんだと諦めたオールドタイプと違って、子どもたちには 世界はより良い物へと変えられると信じて手を伸ばすニュータイプであってほしいと願う。

逆シャアが公開された1988年から人間の文化はどれだけ進歩しただろうか。現代の日本人が示せるこれからの人間のあるべき姿、ニューガンダムの現代の姿とはなんだろうか。

「ガンプラで世界を救うか、それもいいんじゃないか?」

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